はじめに
こんにちは。「OFF-PEAK LIFE」管理人のやっくんです。私は精神科医として働いている20代の男性です。
このブログでは、「ずらすことで、快適に」というテーマで、大多数の人のライフスタイルから少しズレたライフスタイルで、快適な人生を送ることをモットーに記事を書いています。
今回は、「年収1000万を超えてもお金が足りないと感じてしまった理由」についてのお話です。
憧れの年収1000万
「年収1000万超え」というと、「そこそこお金を稼いでいる人」「ちょっとリッチな生活が送れそう」という世間的なイメージがあるように感じます。
医師は高収入のイメージがありますが、働き方によっては大学を卒業し、社会人となった20代半ばで年収が1000万円を超えます。
医師は大学卒業後は初期研修と呼ばれるトレーニング期間があり、この2年間はせいぜい4〜500万程度のことが多いです。しかし、その期間が終わり、普通に医師として働くようになると、給料は跳ね上がるのです。
そんな私も、20代半ばごろには年収が1200万程度となっていました。手取りで言えば80万程度はあったでしょうか。
あっという間に、大学を出て研修をしていた時代の年収の倍以上に跳ね上がったのです。
しかも独身で、そのお金を好きに使える状態でした。
憧れの年収1000万オーバーを達成し、さぞかし幸せなんだろうなぁ、と思うかもしれません。
と、思いきや、必ずしもそうではなかったのです。
独身で年収1000万超えの生活
確かに「年収1000万超えのイメージ」で言えば、その時の僕の生活はイメージ通りでした。
月の手取りが約80万円あり、職場に近い郊外のワンルームに住んでいたこともあり、家賃は5万円程度に抑えていました。そのうち10万円程度は毎月の積立投資に回していましたが、ざっと60万円くらいは可処分所得として使うことができたわけです。
とはいっても初期研修を卒業した当初は、比較的慎ましい生活レベルを保って貯金していました。しかし、口座に毎月お金が振り込まれるにつれ、徐々に財布のヒモが緩んでいきました。
ハイクラス層を狙ったクレジットカードを作り、通販で服などを買い漁る日々。東京に遊びに行っては憧れだった高級ホテルに泊まり、頻繁に外食や旅行をし、移動はもちろんグリーン車。
高級なドイツ製のスポーツカーを買い、出かける時は豪快なエンジン音を響かせ、きらびやかな東京の街を走らせ、お金持ちの仲間入りをした(つもりになった)生活にうっとりしていました。
年収も倍になりましたが、それと同時に、出費も倍以上に跳ね上がったのです。
結局、貯金できる額は年収が低かった時代とほとんど変わらず、毎月のクレジットカードの支払いに追われる日々が続いていました。
この、「支出の額は、収入の額に達するまで膨張する」という出来事は、「パーキンソンの法則」と呼ばれ、僕だけでなく、多くの人に当てはまってしまうピットフォールとして知られているようです。
これは、僕に限らず、若くして収入が増えた同世代の医師や知り合いのエリートサラリーマンなんかをみていても当てはまると実感しています。

ある日訪れた「転機」
天狗になってプチリッチな生活をしていたそんなある日、大きな転機が訪れました。
私は私立の大学を卒業し、2人いる兄弟も皆私立の医学部を卒業していました。私立の医学部の学費は高額で、最安でも2000万円近くはかかるのですが、3人合わせて1億円近くかかります。
その学費を父がほとんど全額、借り入れていました。
私も借入れがあること自体は知っており、親には毎月、お金を送っていました。なんとその返済がほとんど進んでおらず、9000万円以上の借金を背負っていることが明らかになったのです。
しかも、なんと僕を含めた家族も、よく知らないうちに連帯保証人となっており、人ごとではありません。
さらに、返済の要であった父は高齢で、返済のペースを上げるどころか引退も迫ってきていたことから、ついに子供達に打ち明けることになったのです。
突然、1人3000万円以上の負債を抱えることに。プチリッチ生活から一転、目も当てられない大ピンチが訪れてしまったのです。
生活を変えて気づいた「あること」
借金問題が発覚し、それまであったなけなしの貯金も返済に回したことで、銀行口座の残額は0円になりました。
プチリッチ生活から一転、毎月の生活費の決済に追われ、貧乏生活に転落してしまいました。たった5万円の家賃を払うためにも資金繰りが苦しく、お金を借りてくるような有様でした。
そんな僕は、借金を一刻も早く返済するために、徹底的な生活の改革を始めました。
休日や夜間に、医師のアルバイトを毎日のように入れて収入を増やすとともに、これまでの贅沢を徹底的に見直しました。
外食や贅沢な旅行はやめ、通販で衣類などを買い物をすることもやめました。ご飯はほとんど自炊にし、水筒やお弁当を持ち歩きました。
外食に行く時は、本当に行きたいと思える人とのみ行き、サイゼリヤなどの安価なファミレスで楽しく飲むようになりました。
休みの日は近場の公園で自然と触れ合い、たまの楽しみの旅行については移動はマイルやポイントなどで賄える範囲に。高級なホテルに行くことはせず、庶民的な温泉旅館やビジネスホテルに行くようになりました。
そうしたことで、生活に必要な経費は激減し、月15万円程度で生活できるようになりました。
徹底的に勤倹貯蓄に励み、残ったお金を返済に回した結果、完済には至らずとも、1年足らずで1000万円を返済することができたのです。
「仕事を増やし、勤倹貯蓄に励み、生活水準を下げた」と聞くと、「さぞかし辛い思いをして、ひもじい生活をしたのだろう」と思うかもしれません。
確かに、毎日のように病院に泊まり込んで働き、休日もほとんどなく、大変な毎日であったことは間違いありません。
しかし、贅沢をしなくなったことで、ある「心の余裕」が生まれたことに気づいたのです。
贅沢をしないという余裕
というのも、生活水準が上がっていった時の僕は、「贅沢をする」ということに追い立てられるように暮らしていたからです。
財布のひもが緩み、いわば、お風呂の栓を開けたままお湯を流し込むような状態になっていたのです。
だから、たくさんのお金が流れ込んできても、その分どんどん出ていってしまい、心には余裕がありませんでした。
「こんなに稼いでいるのに、お金っていくらあっても本当に足りないな!」と思っていました。(これを「足りないマインド」とでも名付けましょう)
ですが、借金返済という難題に立ち向かうために強制的に生活水準を下げたことで、「案外、お金を使わなくても楽しいことってあるじゃん」と、それまで見失っていたことに気づいたのです。
逆に、「この程度の出費でも幸せなんだ」と気づいたことで、生活の難易度が一気に下がったのです。
よく考えると、「贅沢をしたい!」と思っていた時の僕の心は空っぽで、浪費をすることでその空虚さを満たそうとしていたのかもしれません。
逆に今は、「これだけあれば十分だ」と「足りるマインド」に切り替わったことで、心に余裕が生まれたのです。
お金は麻薬のようなもの
宝くじで高額当選したラッキーパーソンが、数年後に変わり果てた姿で不幸な転帰をたどってしまう。桁違いの年俸を稼ぎ、高級車を乗り回していたスポーツ選手のスーパースターが、引退後に自己破産してしまう。
そうした話は枚挙にいとまがありません。
結局、どれだけのお金を手にしようと、贅沢にはキリがなく、贅沢しようと思えば思うほど、その沼にハマっていってしまうのです。
お金と贅沢には麻薬のような魔性の魅力があります。誰もが魅せられる反面、麻薬のように耐性が生まれ、使えば使うほど、はじめの量では満足できなくなってしまうという特徴があるのです。
僕の失敗が語っている通り、よほどの強制力が働かない限り、上げることこそ簡単ですが、生活水準を下げるということは難易度が高いのです。
カネは誰もが無関係でいられない重要なツールでもありますが、人を狂わせる依存性のある、危険な麻薬でもあるのです。
幸せは「相対評価」
「足りるマインド」の他にも、他にも心に余裕ができた理由がありました。
生理的に必要な衣食住などの環境を除くと、ある程度の幸せは「相対評価」が大きいのだと僕は思います。
これは僕が以前、フルマラソンを走った時の話です。
「走ってみよう!」と思い立ち、ろくに練習せずにフルマラソンに出場した僕は、最初こそ順調でしたが30kmに達したところで脚が攣り、エネルギーも枯渇し、歩くことすらやっとの状況になってしまいました。
しかし、ほうほうの体で歩いていると、コースの端に「給水ポイント」が見えてきたのです。
そこにはみかんやバナナ、スポーツドリンクなどが並んでおり、スタッフが僕に補給をするように勧めてくれました。
その時、僕は涙が出そうなほど救われた気分でした。コースの端で、しおれた僕に元気をくれたドリンクや果物の味は、どこぞの高級ホテルで味わった3万円の神戸牛のディナーが霞むほど、ありがたくて染み渡るようなおいしさでした。
スポーツドリンクやみかんなんて、どこでも安く手に入る普通の食べ物ですが、マラソンで限界に達していた僕には、どんな高級な食べ物よりもありがたかったのです。
結局、贅沢もそれと同じで、状況や捉え方によって価値が変わるものなのです。
「贅沢に慣れてしまう」「舌が肥える」なんて言いますが、どんな贅沢だって、日常に溶け込んで、ありがたみを失ってしまうと、あまり良さを感じられなくなってしまうのです。
日比谷公園などを多くの公園を設計して「公園の父」と呼ばれ、巨額の資産を築いた造園家、本多静六さんの著書「私の財産告白」という本には、これを当時の高級品であった天丼に例えた表現がありました。
「お金がなかったときは、天丼を1杯食べて感動し、2杯食べられたらと思ったが、お金ができて2杯食べてもあまりうまく食えなかった」と。
結局、天丼は貴重な一杯をありがたく食べたからこそ、美味しかったのでしょうね。
一転して貧乏生活に転落した僕にとっては、仕事に追われる中の貴重な休日に、友人や家族とたまに味わう庶民的な外食や旅行が、最高に幸せだと感じるようになりました。
贅沢がもたらしてくれる幸せとは、結局、相対評価の部分が大きいのだと感じます。
貧乏なのに幸福度が上がった理由
年収や支出が増えると幸せになる、そんなイメージを持つ方がやはり多いと思いますが、この一連のエピソードを通じて、なぜ「出費が減ったのに幸福度が増したのか」という理由を考察して、まとめてみました。
生活難易度が下がった
一つは、少ないコストで生活するようになったことで、生活の難易度が下がったことです。
もし今後の人生で、さらなる危機に見舞われても、一度生活水準を下げたことで、ローコストで生活する術を身につけたことは、大きなポイントだったと思います。
逆に、「月100万円あっても足りない!」というマインドだと、「100万円以上は稼がないといけない」というプレッシャーにもつながるのです。
「15万で足りる!」というマインドで、毎月100万円のお金が入ってきたら、心の余裕が全然違うはずです。
本当に必要なものを見極めた
もう一つは、キリのない贅沢生活から抜け出して、「本当に必要なモノ・コト」に絞るようにしたことです。
贅沢生活をしている時は、本当に必要かどうかの判断が鈍り、レストランなどでコースを選ぶときも、「まぁ、とりあえず高いのにしておこう」といった判断をすることが増えていました。
ですが、節約生活をしたことで、不要なものはバッサリ切り、本当に大切だと思うことにお金を使うようになったことで、感覚が研ぎ澄まされて良い判断ができるようになりましたし、お金を払って得たものの対価に対して、ありがたいと思う気持ちが増えました。
人間関係がシンプルになった
また、「人間関係」は非常に大きい要素の一つでした。贅沢生活の時は、本当は行きたくない飲み会に行ったりして、浪費することが多かったですが、出費を抑えることで、自分にとって本当に大事な人間関係を大切にするようになりました。
その結果、自分の大切な人たちから、逆に幸せをもらうことが増えたと感じます。
よく言われますが、自分が好きではない人と何百回高級レストランに行くよりも、大好きな人とファミレスで楽しむ方が幸福度は高かったりするものです。
「愛」はお金では買えないものですが、幸福度には直結するものだと思います。
ローコストで楽しむ方法を知った
ローコストでの生活を余儀なくされたことで、少ないお金で楽しむ方法についてより考えるようになりました。
サイゼリヤの料理だって、好きな人とワイワイ楽しめば、体験としては高級イタリアンに引けをとりません。
無料や低価格で楽しめることの多い庭園や公園などは、自然に触れ合うこともできて、満足度はかなり高いです。
また趣味についても、散歩やランニング、自重でのトレーニングなど、お金がかからなくても打ち込めるコトって結構たくさんあります。
インターネットで無料やサブスクのコンテンツが豊富に楽しめる時代にあって、ローコストで楽しむ選択肢は格段に増えているのではないかと感じます。
「楽しむ=お金を使う」という方程式が凝り固まってしまうのはもったいないと感じてしまいます。
自己投資は惜しまない
「贅沢しまくった日々」を振り返ってみて、デメリットをたくさん挙げてしまいましたが、もちろん良いこともありました。
昔から憧れだった車に乗って色々と出かけたり、素敵なホテルに泊まったりと、浪費でこそあれ、お金を使うことでできた経験は人生の宝物の一つです。
そして、何より有益だったのは、健康や勉強など、自分を高めるために出費をしたことです。
お金を湯水のように使ったことは反省していますが、自分の成長のためにお金を使ったことについては、とても有益だったと感じています。
やはり、せっかく稼いだお金は、何かに投資して新たな種にしたいもの。その基本として、自分がより成長するために使うことは、抜群の効果を発揮すると思います。
財布の紐をユルめすぎないために
では、僕のように巨額の借金は負わずとも、増収に伴う過剰な支出の増大、生活水準の上昇を抑えるのはどうするのがいいのか。
その方法として一番効果的なものが、「天引き」です。
そもそも、毎月入ってくる給料の一定の割合を天引きし、強制的に少ない収入で生活することで、この生活費の増大をコントロールすることができます。
今の時代であれば、NISAなどの投資の制度も充実していますから、給料日に自動的に積立を行ったり、会社の持ち株制度などを活用することで、常に少ないお金で生活する姿勢が身に付くと思います。
謙虚な暮らしの姿勢も大事ですが、せっかく頑張っても全く暮らし向きが向上しないのも面白くありません。
生活コストを差し引いた剰余金を自己投資や金融資産への投資に回し、運用した利益を得ることができれば、少しずつ生活水準を高める余裕が出てくるはずです。
まとめ
若くして年収1000万円を稼ぎ、贅沢生活に明け暮れたかと思いきや、一転して貧乏生活を味わった僕の「気づき」についてお話ししてみました。いかがでしたでしょうか。
「お金」というものは、いろいろな選択肢を与えてくれる万能ツールだと思います。
お金があれば、貯蓄することも、贅沢することも、何かに投資することもできます。お金があれば、お金の力によって誰かを(一時的にでも)振り向かせたりすることもできるでしょう。
浪費だって万歳です。一度きりの人生で、憧れのホテルに泊まったり、高級な車やマンションを買ったりと、贅沢生活をすることもいいですし、そのエネルギーが人生の原動力になることだって大いにあります。
ただ、忘れてはいけないことは、「贅沢はキリがない底なし沼だ」ということと、常に「満ち足りた気持ちをもって、感謝をする」ということです。
回し車で回るハムスターのように、キリのない贅沢をやみくもに追い求めるままでは、心はいつまで経っても満たされることはありません。
大切なのは、心の持ちようです。
自分自身の健康や、周りの大切な人など、今あるかけがえのない幸せに、「ありがとう」と感謝の気持ちを持つことが、幸せへの近道なのではないでしょうか。

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